幻視(まぼろし)-(1)
微かに頬をなでる風にはまだ、冷たさが残っている。
やや薄く霞がかかったような空から、ヒバリの鳴く声が、忙しく降り注ぐ。
砂利道の傍では、タンポポの咲く土手に繋がれた山羊が、
のんびりと草を食んでいる。
大きな目を、時折こちらに向けて、何かを語りかけたそうに、口元を動かす。
『ポォオーッ』と、遠くから汽車の汽笛が聞こえてきた。
線路がわずかに軋み始めている。
列車は、あと数分後に、私たちの横を通り過ぎていくことだろう。
ほかに娯楽のない世界に住んでいたので、汽車を見ることは、
大きな楽しみのひとつだった。
力強い車輪の回転と、吐き出される煙、そして吹き鳴らされる警笛音。
そのどれもが、たまらなく好きだった。
そして、低くたなびいてくる煙が運んでくる石炭の匂い。
それらは、時々母親に連れて行ってもらえる『隣町に繋がる物』であり、
『まだ見たことのない世界』に繋がる乗り物でもあった。
汽車は、轟音をたてて、3人の横を通り過ぎていった。
私はなぜ、現在(いま)の時代に、こんなところに来ているのだろうか。
時代を超えた、こんなところに・・・。
-出逢い-
そうだ。“ヤツ”との出会いがあって、こんなところに連れてこられたのだ。
別に不愉快なわけではないが、“ヤツ”との出会いは、今もって謎である。
最初の“ヤツ”との出会いは、深夜の路上だった。
いずれ会うことになった、もうひとつの“ヤツ”と、
同じ物体なのかどうか、それはわからない。
ただ、私は同じ『物』だろうと、漠然と捉えている。
そして今、私を『この場所』に連れてきたのは、
昼に路上で出会った“ヤツ”の方なのである。
兎に角、最初の出会いは、深夜だった。
街路灯に浮かび上がるアスファルトの道路に、薄く掃いたような煙が流れた。
そこにそんな物が流れるはずがない。
そんな場所だった。
深夜のことでもあるし、私は寝惚け眼だったのか?
いや、いたって正気だったと記憶している。
まぁ、年齢のこともあるし、『霞目』ということもあるだろう。
気のせいだったと思える。
まさか、脳の萎縮によって、幻覚が見えたというわけでもあるまいが・・・。
そんなことを考えて、最初の“ヤツ”との出会いは、何事もなく終わった。
ところが数日後に、また“ヤツ”が姿を現した。
路面を横切るように、掃くような煙のような影が、
私の車の前を走り抜けたのだ。
ただそのときには、”ヤツ”から何らかの『意識』は感じられなかった。
だがその『姿』が、その後もたびたび見られるようになった。
ついに、私の精神が異常を来したか?
そう思わざるを得ないほど、頻発したのだった。
とはいっても、深夜のことである上に、出会った回数も5回ほどだろうか。
5回でも充分に多い、と言えなくもないが、深夜に見える物は、
木の葉の影であったり、風に吹かれたゴミであったりするから、
あまり気にとめなかったのである。
ところが、“ヤツ”の同族か、『同一物』としか思えない物が、
日射しの強い日中にまで、飛び出してきたのである。
『飛び出す』という表現は、いささか不適当だが、
“それ”との日中の出会いが、
これからの『世への旅』のきっかけになったのである。
“それ”は、2回目の出会いの時に、既に『意志』をもって、
私に接触してきた。
“それ”の姿は、白かった。
日射しが強い冬のある日、午後1時過ぎという昼日中に、
“それ”は姿を見せた。
現れ方は、夜の“ヤツ”とそっくりだったが、日射しを浴びながら、
影を伴わずに白い煙のように、ふわりと湧きだして、
地表をゆらりと這い動いて、すっと消えた。
その消え際に、“それ”が私にちらりと意識を向けたのだ。
煙が『意識』を持つというのも不思議なことだが、
“それ”の『視線』を、確かに感じた。
そして“それ”は、目元に笑みを浮かべていた。私を誘うように。
どこが目で、どこが口なのかはわからない。何しろ、相手は『煙』なのだから。
だが『目』と『意識』が、私に向けられていたのだ。
なぜかはわからない。
何が目的なのかも、わからない。
しかし、その『白い“それ”』からは、悪意が感じられなかった。
悪意が感じられなければ、誘いに乗ってみても悪くはない。
次にまた“それ”が現れて、また私を誘うようならば、その誘いに乗ってみよう。
そう思いを固めていたところに、再び“それ”が現れたのだった。
まるで、私の意識を探るように、タイミングを計ったように、
フッと湧き上がり、強い意識を、私に注いできた。
『付いておいで』
“それ”の意識は、私にそう告げていた。
その『意識』に誘われて、「ついて行こう」と決めた瞬間に、
私の意識は、“それ”の中に包み込まれていたのだ。
運転中の車はどうした・・・って?
さて、どうしたのか・・・。
気付いたときには、タンポポが咲く田舎の砂利道を歩いていた。
蒸気機関車が、轟音をたてて脇を走り抜けて行っていた。
兎に角、私の『意識』は、“それ”に導かれて、
いつの世とも知れぬ時代に、紛れ込んでいたのだ。
土手で草を食む山羊から、ふと目を上げて砂利道の先を見やると、
カーブの先から、小さな2人の子供を連れた若い母親が、
こちらに向かって歩いてきていた。
私の存在が目に入らないのか、3人はなにやら話に没頭していた。
-揺り起こされた記憶-
素知らぬ顔で、私は3人の後方に近づいた。
人通りがある道ではない。
3人のうちの誰かは、私の存在に気付くだろう。
そう思ったのだが、よほど話に没頭しているのか、
それとも私の存在が眼中にないものか、
誰もが私の存在を、気にとめていないようだった。
せっせと野良仕事に精を出す百姓の姿は、遠くの畑にちらほらと見られる。
こんなに静かな春の、昼下がりの光景を見たのは、いつのことだろうか。
小さな女の子が、歩き疲れたらしい。
母親に、「のどが渇いた。」と訴えて、
休憩を取ることになった。
日陰を作り出す竹藪の下の土手に腰を下ろして、
母親は両手に提げた重そうな買い物袋を、地面におろした。
その袋の中から、買ってきた果物を、ひとつ取り出した。
その間も、子供たちの話は、止むことがない。
私は、存在を認められていないことをいいことに、
3人の傍らに、並ぶように腰を下ろした。
私の存在は、どうなっているのだろう?
全く3人の意識が、こちらに向けられる様子がない。
だがそれならば、『透明人間』のようなものだ。
気にせずに振る舞うことにしよう。
そう思った瞬間に、『母親』の視線だけが、
一瞬、私の方に振り向けられたような気がした。
だがそれも『一瞬』の出来事で、その『母親』が、
私を認めたとは、確信できなかった。
買い物袋に書かれた名前から、母親の名前は『芳子』というらしい。
話を聞いていると、年上の男の子の名前は『タカオ』、
3歳くらいの女の子は『ヤヨイ』ということがわかった。
休息場所の竹藪から連想が始まったのだろうか。
女の子(ヤヨイ)の話は、昔話の『舌切り雀』に移っている。
『タカオ』は、妹の話を無視するように、
竹藪の中で斬り合う『柳生十兵衛』の話に没頭している。
その話の間にも、『芳子』の手は、休まるときがなかった。
私は素知らぬ顔で親子の会話を聞いていたが、
こんな偶然があるのだろうか?
と、30歳代半ばの母親の顔を窺おうとするのだが、
偶然のタイミングなのか、その母親の顔だけが、確認できない。
会話の内容から、表情の予想はできる。
しかし、そこで腰を下ろしてから15分ほど経つはずなのに、
母親の顔だけが、確認できないのだ。
その母親・芳子が、私を意識して顔を背けているのでないことは、
自然の振る舞いから感じ取れる。
私の方に、何のためらいもなく顔を向けているときもあるのだから。
だがそんなときは、私の方があらぬ方向を見ていて、
記憶の引き出しから、何かを探り出そうとしている。
ふと気が付いて、芳子の顔を見ようとすると、
彼女はまた別の方を向いているのだ。
そんな繰り返しが続いたが、私はあえて、
『芳子』の顔を覗き込もうとは思わなかった。
3人の名前を知って、古い記憶を揺り起こされた気分になり、
ひとつひとつの記憶を掘り起こしながら、
一致する符号に、たまらない安堵感を覚えていたのだった。
農家の乾いた庭先から、図上を覆って日陰を提供する竹藪の下で、
親子3人の会話は、相変わらず続いている。
芳子は、買い物袋からひとつのリンゴを取り出した。
「のどが渇いた。」と訴えるヤヨイに与えるために、
隣町で買ってきた果物を、与えることにしたのだ。
子供たちを連れて隣町に買い物に行くときには、
この休憩場所と、「のどが渇いた。」というパターンは、
恒例のことだった。
芳子は、手慣れた様子で、取り出したリンゴを、
着物の袖でキュッキュッと拭いて、
両手に包み込むように握ると、無造作にポンとふたつに割った。
青森育ちの彼女にとっては、造作ない作業だったが、
それを見ている『タカオ』の目には、驚きと尊敬の気持ちが浮かんでいた。
そのときだけは、『タカオ』の柳生十兵衛の話は、中断した。
「母ちゃん、どうやったらリンゴが割れるんだぃ?」
「大人になったら、割れるようになるよ。」
「ふぅん・・・。母ちゃんは力があっから、割れるんか?」
「力で割るんじゃないよ。割り方は、そのときになったら、
教えてやるよ。」
「うん、そうか。それで十兵衛はね・・・。」
タカオの気持ちはすぐに、
また、柳生十兵衛が竹藪で戦ったシーンに、戻っている。
ヤヨイの目は、母の手に握られたリンゴの、
瑞々しい割れ口に吸い寄せられている。
彼女の話もまた、舌切り雀が糊を食べてどうなったのか? と、
次の展開を求めて、母親に話の続きを、求め始めている。
芳子は、軽くため息をついた。
子供たちの会話は、それぞれが勝手に、
自分の興味があることだけに没頭して、母に聞くことを求めてくる。
いい加減に相槌を打ちながら、適当に会話に応じて、
二人の話を振り分けていたが、時には鬱陶しくなるときもある。
私はその光景を見ながら、ついにリンゴを上手に割れなかったことを、
思い起こしていた。
母親に、リンゴの割方を教わったのだが、
リンゴの握り方と、力の入れ方を教わっても、
ついに上手に割れなかった。
時に、割れることもあったが、割れたリンゴには、
私が握りつぶした指のあとが、残ってしまうのだった。
母が割ったリンゴには、指の跡など、付いていたことがない。
「どうしたら、上手に割れるんだろう?」
「訓練だよ。練習をすれば、割れるようになるさ。」
「握り潰しちゃうんだよなぁ。」
「力で割ろうとするからだよ。」
そんなことで、母からそれ以上の『コツ』を教えてもらうことはなかった。
そして、そのまま、リンゴを素手で割ることにチャレンジする気持ちは、
すっかり失せていたのだ。
だがここでまた、芳子の手際のいい行動を見せられて、
何となく再びチャレンジしてみようか、という気持ちが、
揺り動かされた。
ここでこの母親に教えを請うたら、コツを教えてもらえるだろうか?
私の母は、そんなに器用な方ではなかったし、
運動神経が優れているわけでもなかった。
それでも、無造作にリンゴを割ることができたし、
お手玉などは、4個ほどを片手で自由に操って見せてくれたものだった。
その母よりは、私の方が運動神経はマシなはずだった。
私にだって、リンゴが割れないはずはない。
芳子が、そんな私の気持ちに、気付くはずもない。
私の存在そのものに、気付いていない様子なのだから。
彼女は、タカオに話しかけていた。
タカオの柳生十兵衛の話が、ポンと遮られた。
「タカオ、ほら山羊がおまえに話しかけてるぞ。」
山羊が3人の方を見て、「めぇへぇええ・・・。」と鳴いた。
「何て言ってんだぃ?」
「よく来たなぁ、覚えてっか? ってさ。」
「覚えてるって、何してだ?」
「おまえが赤ん坊の時には、山羊の乳を飲んで育ったんだ。
山羊には、ずいぶんお世話になったんだぞ。」
「ふぅん。」
ようやく、一人の会話を逸らすことができて、
芳子は、ふっと一息ついた気分だった。
3人の傍らを通り過ぎた汽車は、隣町の役に到着して、
一休みをしている頃合いだった。
「母ちゃん、俺、線路の音を聞いてくる。」
タカオがそう言い置いて、小さな踏切に駈けていく。
「気をつけろよ。すぐに帰って来いよ。」
芳子は、線路の信号機を確認した。
2時間に1本しか走らない単線のローカル列車は、
すぐには来ないはずだった。
信号機も、腕を上げて列車が来ないことを知らせていた。
汽車に興味を持っている8歳になるタカオも、
そのくらいのことは知っているはずだ。
彼は線路に駆け上がると、線路に耳をつけた。
春の日射しに暖められた鉄路は、暖かくも感じられた。
“鉄”というイメージに対して、
意外な“暖かさ”を感じさせたのかも知れない。
重く横たわる線路は、遙かな距離から来る軋み音を、
彼の耳に伝えた。
彼にとって小さな『隣町』は、憧れの都会であり、
滅多に行くことがない、尊敬する従兄が住む町でもあった。
その隣町から、蒸気機関車が、
線路を通じて『息づかい』を送ってくる。
彼にとっては、その鉄路に耳を当てることで、
隣町と繋がりが得られるような、嬉しさがこみ上げてくるのだ。
タカオが線路から駆け下りて、芳子の元に帰ってくると、
彼女はタカオに、話を始めた。
「タカオ、線路はどうだった? 温かったか?」
「うん、何だか、ピシピシって聞こえた。母ちゃん、何だい、あれ?」
「その音はなぁ、春になって、線路が『温くなったなぁ。』って、
伸びをしてる音だ。母ちゃんは、線路で事故をいっぱい見たり聞いたりした。
気、つけろよ。汽車は、速いぞ。」
「うん、わかった。」
「線路で汽車に撥ねられるのは、ほとんどが馬なんだ。
牛はのろまだけど、撥ねられねぇんだぞ。
馬はな、汽車が来っと、自分が汽車よりも速いと思って、
足に自身があるから、線路をまっすぐに逃げて、汽車に撥ねられるんだ。
牛は、すぐそばまで汽車が来てから、ゆっくり立って、
のそっと線路から降りるんだ。だから撥ねられねぇ。
わかるか?」
「そうなのか。」
タカオは、何だか納得してしまった。
芳子は工機部(国鉄=現JR=機関車を中心に製造していた工場の1部署)
に務めていた経験から、多くの事例を聞いていた。
その経験を、子供に教えて、注意を喚起しようとしたのだろう。
彼女は、子供の行動に対して、単純に「止めなさい。」とは言わなかった。
危険な場合には、危険な事例を教えて、
子供が自発的に物事を考えるように、し向けたのだ。
私の『記憶の引き出し』には、その言葉が大切にしまわれている。
年老いた白い山羊を見て、そんなことをぼんやりと考えていた私が、
ふと『現実』に意識を戻すと、3人の親子の姿が消えていた。
峠に向かって、細く折り返す道には、親子の姿が見えない。
途中の木陰にでも、姿が隠れているのだろうか。
だが、あの幼い女の子を連れて、遙か先の木陰まで移動したとは思えない。
はて? いつの間に、彼女たちは姿を消したのだろうか。
周囲を見回しても、ほかに知っている人はいそうにない。
それは当然のことで、私がこの土地を知っているのは、
幼い頃の時分までなのだから、野良仕事をする人の名前や顔を、
知っているはずがないのだ。
そうなると、心が温まるような『知人』らしきあの3人の姿を、
追い求めてみたい気分も、気持ちの片隅に残る。
だが不思議なことに、どうしても探してみたいという
強い気持ちには駆られない。
『これは、いずれまた会える』という“確信”が、
確かに潜んでいるからであるようだった。
でも“ぼんやり”とではあるが、探してみたい気持ちもある。
自分の意識がなすに任せてみた。
-折り重なる時間-
さて、どうすれば“あの3人”を見つけられるだろうか。
そう考えた次の瞬間に、私は“高台”を求めていた。
『何が起きているんだ?』
私は瞬間、自問した。
私の身体が、地面から離れている。
『これじゃ、空中浮遊じゃないか。』
“じゃないか”どころではない。
間違いなく、空中に浮き上がっている。
『そんなこと、できるはずがない。』
そうは思ったが、空中から下界を見下ろせれば、こんなに便利なことはない。
何が起きたのかわからないが、事態を受け入れて、
これを利用することにした。
意識のコントロール次第で、空中での高さなどを操れることもわかった。
ではあったが、“空中浮遊”など、初めての経験である。
空中で姿勢を制御して、『希望する高度』を保ち、
『上下左右』の位置を確保し続けるには、
かなり高度な“意識レベル”が、必要だった。
どにか空中に浮かび上がったが、最初の難関は、
頭上の柿の木の枝だった。
その張り出した枝を避けて、何もない空中へ抜け出す作業が、
こんなにも難しいことだとは思わなかった。
まるで“木の枝に引っかかった凧”状態になってしまう。
野良仕事をしている誰も、こんな私の無様な姿を見ていないらしいことが、救いだった。
もがきながらも、木の枝を払いのけて、大空に脱出した。
さて、空中での手の置き方は、どうすればいいのだろう?
実は、そんなことを考えるゆとりは、なかったのだ。
少し油断すれば、たちまち高度が下がり、
農家の軒先に引っかかりそうになる。
ただ、もがきながら、どうにかこうにか、不安定に浮かんでいた。
その“空中浮遊”に至った目的を、忘れるところだった。
空中浮遊は、それほどに意識の集中を求められたのだ。
こんなことになった原因は、3人の姿を探すためだった。
不安定な姿で、風に吹かれればどこかに流されてしまいそうな状態で、
下界を見下ろしても、見つけられるはずもない。
大変な集中力が必要で、疲労困憊のあげくに、
瓦屋根を転げ落ちるように、地上に舞い降りた。
結局のところ、あの母子連れは、見つけられなかった。
『空中浮遊』のような荒唐無稽な状態は、どのようにして発生したのだろうか。
“あの家族”の姿は見つけられなかったが、とっさの状況によっては、
精神が『浮遊』できるらしいことがわかった。
まだその状態は不安定だし、
風が吹けば、意志のコントロールもままならない。
だが兎に角、『高所から見渡す』状況を作り出せるのは、
何かと便利である。
家族を見失った私は、狭い小径の砂利を踏んで、坂道を上った。
なぜその方向に向かったのか、特に意識はない。
懐かしい雰囲気に誘われるままに、坂道をたどっていたのだ。
その細い坂道には、母親の『芳子』と、男の子『タカオ』、女の子『ヤヨイ』の、
3人の残映が焼き付いているようで、その痕跡をなぞるように、
私は無意識に歩いていたのだった。
そしてその坂道は、頂点に達した。
小さな『丘』だった。
そこが“イナバ”と呼ばれていることを、私はなぜ知っているのだろう。
小高い丘の“イナバ”からは、小さな集落が一望できた。
私の意識が、『タカオ』の意識とシンクロし始めているようだった。
なぜ、タカオの意識と?
先ほど出会ったばかりで、すぐに姿を見失った『タカオ』の意識と、
私の意識がシンクロする意味は、何だろう。
いずれにしても、彼の“気持ち”や“経験”が、
私の心に直接、映像を映し出しているのだ。
その映像は、初めのうちはぼんやりとしたものだったが、
やがて鮮明になり始めていた。
彼の行動が、私の“経験”と一致するような感覚が、現れ始めた。
“イナバ”(稲場?)といわれるなだらかな小高い丘は、
茅花(ツバナ=チガヤ)の白い穂で埋め尽くされていた。
その白い穂が風に揺れて、懐かしい記憶を運んできた。
この草の穂は、子供の頃に『シロマンマ』だなんて、
勝手に名を付けて、摘んでしゃぶった記憶がある。
ほのかに甘い味が、口に広がったものだった。
さて、この“記憶”は、私の記憶だろうか、
『タカオ』の記憶なのだろうか・・・。
その境界が、混沌とし始めていた。
茅花の白い穂の向こうに、藁葺き屋根の農家や、
トタン屋根の粗末な小屋などが、木々に埋もれるように点在している。
突然に、私の足から、子供の笑い声が湧き上がった。
二人の子供の周りを、成犬が駆け回っている。
犬は、紐に繋がれてはいない。
だが首輪をはめられているところを見ると、飼い犬であることは明らかだ。
幼い子供たちは、その犬と戯れている。
犬は、子供に遊ばれている、といった感じには見えない。
犬が、子供のお守りをしているようだ。
子供のひとりは『タカオ』だった。
犬は、タカオの友達の家で飼っているもので、名前を『マル』と呼ばれた。
二人は、犬に口を開けさせて、その中に手を突っ込んだり、
耳を引っ張ったりして遊んでいる。
犬は、二人の為すがままにされていたが、
やがて、子供たちが力を合わせて、彼=マルの身体を、
稲場に開けられた大きな穴に、落とし込もうとしたときに、
身体の半分が落ちかけると同時に、穴から飛び出して、
山の方へ駈けて行ってしまった。
さすがに、他愛ない遊びにつきあっていても、
マルとしては,持て余してしまったのだろう。
取り残された二人は、急に“遊びの相手を失った”様子で、
稲場の白い穂の上に腰を下ろして、所在なげに眼下の家々を眺めている。
稲場の“大きな穴”は、何の目的で造られていたのだろうか。
幼いタカオの意識は、そんなことには無頓着だった。
私の意識が、疑問を持ったのである。
そこで思いつくことは、“稲場”という呼称から、
稲を干すための場所として、村人に利用されていて、
その作業のための太い支柱を立てるために、穴が掘られていたのだろう。
子供たちは、その穴に、犬のマルを押し込めようとしたのだ。
押し込めてから、何をしたいのか、私にはわからなかった。
タカオの意志が、私の意識にシンクロしてこないのだ。
シンクロしない意識とは、彼が深い意図を持って行動したわけではない、
ということなのだろうと、私は理解した。
そんな他愛ない“遊び”を眺めているうちに、
周囲は夕焼けに染まり始めていた。
二人の子供の肩が、夕焼けに染まり始めている。
丘を埋めて揺れていた茅花の白い穂にも、赤味が差し始めている。
「帰っか。」
「うん、そうすっか。マルも家に帰っているかもしんねぇし。」
二人はそんな会話を交わして、小さな腰を上げた。
黄昏が盆地の里に少しずつ満ちていく頃、
里の方から、薪を焚く匂いが、うっすらと稲場の方に流れてきた。
不思議とひと気が感じられない里だったが、
一日の営みは、普通に繰り返されていると見える。
それとも、この感覚は、
現実と非現実との間に紛れ込んだ私の深層記憶が、
“仮想現実”の中に、臭覚までを伴って、呼び覚まさせたのだろうか。
その一瞬の“雑念”の間に、
ゆっくりと歩き出していたはずの二人の子供の姿が、
視界から掻き消えていた。
先ほどの親子の時と同じ“消え方”だった。
だがその現象を、私は不思議と思わなくなっていた。
たった二度の経験が、私の感覚を慣れさせたというのだろうか。
感覚が麻痺しているのは、間違いないようだったが・・・。
稲場に一番近い粗末な小屋の傍らから、声が聞こえた。
「とー! と・と・と・と・・・!」
それが、鶏を呼ぶ芳子の声だということが、直感的にわかった。
夕暮れ時に餌を与えるために、放し飼いの鶏たちを、
呼び寄せているのだ。
思い思いの方角から、白い鶏の姿が、一ヵ所に集結した。
芳子の姿は見えないが、まだ鶏を呼ぶ声が続いている。
「とー! と・と・と・と・・・!」
まだ鶏の数が不足しているのだろう。
私も、“足りない鶏”の姿を、無意識に探していた。
芳子が鶏を呼んでいる小屋のそばには、小さな用水池がある。
その縁で、タカオとヤヨイの兄妹が、水に戯れている。
もうひとりの女の子が、その池で鍋を洗っている。
タカオが、山の方を見上げいる。
つられて私も、風で山がうねるような、彼方の杉山を見上げた。
その杉山の、ひときわ高い木立の上に、白い姿が見えた。
『あれが、鶏か?』
距離にして、300メートル前後はあるだろう。
その梢に、鶏が留まっているのだった。
芳子の声が、鶏の耳に達したのだろうか。
鶏が、ふっと杉の梢から離れた。
白い姿が一気に大きく膨らんで、麓の小屋まで舞い降りてきた。
鶏が、あの高い梢に上ることさえ不思議だったのに、
その鶏が、数百メートルの距離を、飛んできたのである。
これが現実なのだろうか。
既に現実の世界にいるわけではないと、意識では理解していても、
その映像が届けられると、これは“驚き”に値したのだ。
だがこの光景に驚いたのは、私だけだったらしい。
私の視界にある数人の子供たちは、皆、平然としている。
これが、ありふれた光景なのだろう。
と思ったところで、用水池からあわただしい水音が湧き上がった。
山を見上げていたタカオも、水音に驚いて、足下に目を移した。
池の中に、ヤヨイが落ちて、もがいている。
全員が鶏の行方に目を奪われている隙に、
池の端では、別のドラマが進行していたのだ。
水草や、アメンボウの姿に夢中になり、
ヤヨイが鍋を洗っている女の子・『カツラ』に近寄りすぎた。
そのヤヨイを煩わしいと感じたカツラが、肘で軽くヤヨイを突いたのだ。
幼いヤヨイは、バランスを崩して、用水池に転落した。
驚きのあまり、ヤヨイは声を立てることさえ忘れて、もがいていた。
水音に気付いたタカオが手を差し伸べたが、ヤヨイの身体は、
用水池の中心部に向かって、動いていた。
タカオは必死に手を伸ばすが、指先がヤヨイのちゃんちゃんこに、
わずかに触れるばかりだ。
用水池は、すり鉢状に深くなっていて、底の泥がタカオの足を滑らせる。
中心部が、どの程度深いのか、タカオにはわからない。
わずかに直径が10メートルばかりの用水池。
いつもは何気なく、おもちゃのボートを浮かべて、
届かないところで引っかかったときには、竹竿などでかき寄せていた用水池。
その用水池が、いま妹を奪い取ろうとしている。
いつもの竹竿なら、池のそばに聳える柿の木に立てかけてあるはずだ。
だがタカオは、ヤヨイから目を離すことができなかった。
目を離した隙に、ヤヨイが池に飲み込まれてしまいそうな気がしたからだ。
恐る恐る池の中に身体を進めた。水は、タカオの腰を濡らした。
ヤヨイの身体は、さらに池の中心部に移動したようだった。
綿入れのちゃんちゃんこが、水を吸って重くなっている。
ヤヨイは、顔だけを水面に浮かべて、もがき続けている。
タカオは泳げない。だがタカオは、何も考えていなかった。
ただ、妹の着物の端でも掴まえれば・・・と、それだけを念じていた。
周囲の何物も、目に入らない。
ただ一点、絣模様の、ヤヨイの着物の袖だけを、目に捉えている。
この状況を作り出したカツラは、兄妹の奮闘を横目にして、
鍋とタワシを手にすると、声もかけずに、その場を離れてしまった。
誰も、肘でヤヨイを小突いた現場を見ていない。
自分には責任がないのだから・・・。
そんな意識があったのだろうか。
それとも、『大変なことになっている』という恐怖感があったのだろうか。
カツラの意識にシンクロできない私の意識は、
彼女の本心がわからない。
だが、カツラもまだ小学生の低学年。
それほどの悪意や、計算によって行動しているはずはない。
いずれにしても、このままでは、ヤヨイが溺れる。
ヤヨイは、突然の出来事に驚いたのか、
暴れることも、もがくことも忘れたように、
わずかに手足を動かすだけで、叫び声も上げない。
顔が上を向いているために、急に溺れる畏れはなさそうだ。
綿入れの『ちゃんちゃんこ』が、浮き袋の役目を果たしているらしく、
水面に静かに浮かんでいるのだ。
だがしかし、その『ちゃんちゃんこ』も、確実に水を含んで、
わずかずつ沈み始めている。
スローモーションのようだが、そのスピードは、意外に速い。
綿が水を含めば、沈む速度は急激に速まるだろう。
そして、重くなったヤヨイの身体は、タカオの力で引き上げられるかどうか、
予想できない。
ヤヨイを追うタカオの身体は、腹部まで水に浸かっていた。
池に浮かんだヤヨイは、微風に身を任せて、
タカオの指先から、逃げ続けている。
この情景を見て、私は何もできないのだろうか。
『風』を吹かせて、ヤヨイの身体を岸辺に向けて動かすことは、
できないのだろうか。
その思いが通じたのだろうか。
それとも、風の気まぐれか・・・。
フイッと、ヤヨイの身体が、タカオのいる方向に流された。
タカオの指先に、ヤヨイの『ちゃんちゃんこ』の端が捉えられた。
タカオは、その端を必死で掴んで、徐々に、
そして次には一気に、手元にたぐり寄せた。
水を含み始めた『ちゃんちゃんこ』は、意外に重くなっていた。
だが、ヤヨイの小さな身体は軽く、
岸辺に引き上げるのは、難しいことではなかった。
岸辺に引き上げられたヤヨイは、その時になってようやく、
僅かに鳴き声を発し始めた。
恐怖が湧き上がったのだろうか。
濡れた水の冷たさが、心細さを増幅させたのだろうか。
タカオは、ヤヨイを引き上げてから初めて、
危機的状況に気付いて、震える思いだった。
カツラは、何事もなかったように、洗い終えた鍋とタワシを持って、
自宅に帰っていた。
彼女もまだ、幼かった。
彼女は、自宅でこれから、夕飯の支度を手伝わなければならないのだ。
鍋を持ち帰らなければ、どんな叱責が待っているか、わからなかった。
ヤヨイを小突いて池に落としたことよりも、
自宅での叱責の方が、彼女にとっては重大事だったのである。
この出来事の一部始終は、村人の誰かが、遠くで見ていたようだった。
私は『人気がない里』だと思っていたが、
人知れず、どこかで誰かが見ている。
それが『村』という社会なのだ、と改めて気付かされた。
「駆けつけようにも遠くて、間に合わないと思った。助かって良かったなぁ。
意地の悪いカツラが、肘で突っついたもんだから、
ヤヨイが池に転がってしまったんだ。」
そんな噂が、小さな集落に行き渡るのは、あっという間もなかった。
電話もない時代なのに、夕飯前には、近所の誰もが、
出来事の一部始終を、知っていたのである。
だが、ヤヨイが助かったということで、
誰もそれ以上、事態を追求しようとはしなかった。
それが『村社会』が、平穏に生活するためのルールなのである。
タカオを、濡れ鼠のヤヨイを連れて、
池の下方にある粗末な自宅(小屋と呼ばれていた)に、帰っていった。
夕飯を済ませたのだろうか。
タカオとヤヨイが、自宅の狭い庭に出て、遊んでいる。
ヤヨイには、小豆色の花柄の『ちゃんちゃんこ』が着せられていた。
芳子が、自分のお古を仕立て直して、
子供たちのちゃんちゃんこを、何着か用意していたのだろう。
夕暮れ時は、まだ肌寒い。
小豆色のちゃんちゃんこを着たヤヨイは、
兄のタカオと、庭に絵を描いて遊んでいる。
木の枝で地面をひっかいて、何かを描いている。
スイッと、何かが、私の目の前を横切った。
タカオの目も、その『何か』に吸い寄せられた。
ものの形が見えにくくなる夕闇に紛れて、その『何か』は現れた。
私が都会で生活をし始めてから、その『何か』には、
ついぞ出会ったことがない。
そのようなわけで、『何か』の本名? は知らない。
タカオが、その『飛び回る生き物』を捕らえようと、
小屋(彼の家)の横手に、駆けていった。
彼の手には、本家の伯父さんが造ってくれた竹箒が、握られていた。
竹箒が、『何か』を目掛けて振り下ろされた。
夕闇に紛れて、高速で飛び回る『何か』の影を目掛けて、
竹箒は、一直線に走った。
箒の隙間で、捕らえられた『何か』が、バサバサと動いた。
“逢魔が時”と呼ばれる薄暮時に、その生き物は、
闇を求めるように、細い堀の上を高速で飛翔して、
獲物を捕らえていた。
「お! ヨルトンボだな。よく掴まえたなぁ!」
庭先を通りかかった伯父さんが、タカオに声をかけて通り過ぎた。
タカオは、「うん。」とだけ答えて、捕まえた“ヨルトンボ”から目を逸らさない。
せっかく捕まえた獲物を、逃がしてはならない。
竹箒の隙間で暴れるトンボに噛み付かれながら、取り出して、
羽をそっと持ち替えた。
伯父さんも、そのトンボの本名を教えてくれなかった。
タカオも、その名前に興味はなかった。
俗称の“ヨルトンボ”で、誰も困らなかったからだ。
そのようなことで、タカオの意識から状況を読み取る私にも、
トンボの正式名は、見当が付かない。
夕暮れ時に水路などの上を飛び回って、蚊を補食するということから、
“カトリヤンマ”か“ヤブヤンマ”ではないかと、見当を付けてみた。
箒から外したヨルトンボを手にして、タカオは家(小屋)に入っていった。
部屋に放たれたトンボは、薄暗い40ワットの裸電球の下で、
しばらくは元気に飛び回るはずだ。
タカオの家は、東電との電力契約が40ワットだったので、
広い本家などよりも、暗めの夜を過ごしたのだ。
芳子が夜なべ仕事をするときや、子供に本を読んでやるときなどには、
東電に内緒で、60ワットの電球に取り替えて、
ちょっと明るい夜を作り出すのだった。
この夜は、薄暗い40ワットの電球で過ごす夜だったようだ。
板戸(雨戸)の節穴から漏れる光が、弱々しくもの悲しい。
芳子の夫は、まだ残業から帰ってこないのだろうか。
それとも、どこかに出張か?
《東電との電力契約は、戦後間もない時期まで、
メーターの設置もされていなくて、『契約』を守ることで、それぞれの家庭が生活をしていた。
電力会社は、抜き打ち的に家庭を訪問して、
契約以上の電灯などが使われていないかを、調べていた。
たとえば40ワットの契約をしていながら、60ワットの電球を使っていたり、
ラジオなどのほかの電気設備を設置していれば、
『契約打ち切り』によって電力供給を停止して、なおかつ、罰金の徴収も行った。
その電力会社の見回りをいち早く見つけて、家庭に知らせるのは、
外で遊んでいるタカオたちのような子供の役目だった。
現在は、35アンペアや50アンペアといった契約が多く、
電力供給はブレーカー付きのメーターなどによって管理されているが、
電力供給が乏しかった昔(昭和中期)は、一般家庭では0.3アンペア=300ワットもあれば、
充分に用が足りた時代だった。》
まもなく家の電灯が消されて、提灯を手にした家族が、
玄関の狭い引き戸を開けて、闇夜の庭に出てきた。
タカオの家には風呂が無く、少し離れた伯父さんの家まで、
風呂を戴きに、通っているのだ。
提灯で足下を照らすのは、タカオの役目だった。
芳子は眠ってしまったヤヨイを背にして、足下を見つめて坂を上る。
タカオが時々後ろを振り返り、母の足下を照らす。
風に揺れる提灯の明かりが、小石の影を、長くのばす。
私は、提灯が結構明るいのに、驚いた。
目が、暗闇になれてしまったためだろう。
タカオは風呂好きではなかったが、
伯父さんの家で、大きな囲炉裏を囲んで賑やかに話したり、
従兄たちと騒ぐひとしきりが、楽しみではあった。
この夜の話題は、ヤヨイが池に落ちた“事件”で盛り上がることだろう。
子供たちは、広い庭を駆け回って、風呂の用意ができるまでのひとときを、
楽しむのだ。
このときになって、私はふと不思議なことに気が付いた。
私はまだ、昼の出会いの時から、芳子の顔を見ていない。
何度も出会っているはずなのに、姿を見ているはずなのに、
彼女の姿を見ていない。
ヤヨイがおんぶされていたはずの、芳子の姿が、
記憶の中に存在しない。
いつも子供に何かを話しかけていたはずの、芳子の姿が見えない。
話しかけていた彼女の声は・・・?
声は、聞こえていたのだろうか。
なぜか、タカオたちとの会話が聞こえていたような気がするが、
あれは“声”ではなかったのだろうか。
私の意識に、直接伝わった“声”だったのだろうか。
いくら思い返しても、出来事が理解しきれない。
ふと見上げると、晴天の闇夜の空が白い。
何年ぶり? いや、何十年ぶりに見る星空だろうか。
都会では、ついぞ見ることができなくなっていた星空だ。
子供の頃には、何の不思議もなく眺めていた星空が、
この田舎の村に来て、久しぶりに拝めたのだ。
満天の星空だ。
星のひとつひとつが、思い思いに微妙な色合いで瞬いている。
漆黒の空に広がる“白いうねり”は、天の川。
こんな星空を、毎日のように見ていたことがあったような・・・。
あったのだろうか、そんな現実が。
私には、織り姫がどれなのかもわからない。
彦星がどれなのかも、わからない。
満天の星空の中では、かえって“火星”だって見分けが付かない。
北斗七星が、『柄杓の形をしている』と教えられていたので、
かろうじて見分けられる程度の知識しか、持ち合わせていない。
庭に出ている子供の傍らで、芳子が一緒に空を見上げている。
「北斗七星が見えるだろう? 柄杓の形に光っている、あれだぞ。」
「どれなんだか、よくわかんねぇよ。」
「ほら、あれがひとつ。そして順番にずぅーっと結んでいくと、
7つあるだろ。あれが全部で北斗七星だ。」
「うん、あれかぁぁ。」
そうは答えたものの、タカオには母がどの星を指しているのか、
よくわかってはいなかった。
ただ、何となく“方角”が理解できたにすぎなかった。
やはり、このときにも“不思議な現象”は、つきまとっていた。
私には、芳子の姿が見えない。
ヤヨイは、亀夫伯父さんの膝の上で眠っている。
亀夫伯父は、戦争中に激戦地を戦い抜いて、
納得できない上官の命令には、公然と逆らった。
時には上官を殴りつけることもあった。
彼の気性の荒さは有名で、上官も彼を処罰することはできなかった。
そんな噂を芳子も伝え聞いていて、畏れを抱いていた。
実際に彼女は、夫の兄である亀夫とは、挨拶を交わす程度のつきあいで、
それ以上のことは知らなかった。
だがその亀夫が、人見知りの激しいヤヨイを膝に抱いて、
眠らせてくれている。
その情景は、軽い驚きであるとともに、感動的でもあった。
この光景は、芳子にとって、初めてのことではない。
長男のタカオもまた、亀夫にはよくなついていて、
怖いはずの亀夫が、ほとんど叱ることもなく、タカオの面倒を見てくれた。
評判を聞いていた芳子にとっては、
亀夫がタカオを可愛がるというそのことが、まず最初の驚きだったのである。
そしてこの日のヤヨイの抱っこ”である。
彼女は、その光景を見て、心の中で『くすっ』と笑った。
留守がちな夫に替わって、周囲の人たちが畏れている義兄が、
自分の子供さえもほとんど抱いたことがないだろう義兄が、
幼いヤヨイを、抱いてくれている。
本当は、亀夫は“ただ怖い人”なのではなくて、
正義感が強いために、不審を持てば誰の意見にも従わなかっただけで、
普段は心が優しい、繊細な神経の持ち主なのだろう。
“照れ屋”であることが、誤解を招いているに違いない。
そう思ってから、彼女の亀夫を見る目は変わった。
末弟の夫が、田舎慣れしていない妻を娶ったことで、
その連れ合いの苦労を、影になって庇ってやろう、と、
そんな心根が、感じ取れるようになったのである。
その視点で今までの出来事を思い起こせば、
亀夫が末弟の夫を思いやる眼差しも、芳子に対する“それとない心遣い”も、
まるで父親を思わせる寛容さと、慈愛に満ちたものだった。
ひとしきり表で遊んだ子供たちが、屋内に戻った。
「ほら、早く風呂に入れよ。次の人が待ってるぞ。」
母に促されても、タカオは渋った。
父が一緒の時には、問答無用で放り込まれる風呂が、
タカオは苦手だった。
風呂は、五右衛門風呂の入り方も、あまりよく解らずに、
それも風呂を敬遠する原因になっていたのだろう。
最初の時には、浴槽に浮いている丸い板を、
蓋と間違えて取り外して入り、底の熱さに驚いて飛び出した。
そんな経験も、風呂嫌いの一因かも知れない。
「なぁんだ。入り方がわかんなかったんだな。
あれは蓋じゃねぇんだぞ。」
と教えられて、蓋のようなものは、底に沈めて使うものだということが、
その教えられて初めて、解ったのだった。
それまでは、入るときには既に“底板”は沈められていたので、
気付かなかったのである。
まぁ、子供の風呂嫌いは、理由があるとは言えないことも多いのだが。
いつまでも風呂に入らないタカオを見て、芳子は亀夫の家族に詫びた。
「いいさ。風呂なんか、また明日入ればいい。
無理に入れることなんかねぇべ。」
亀夫がそう言ってくれて、タカオはこの日の風呂を免れた。
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